#TECCI

2015年12月31日号 Vol.10

特集 Saint Laurentという理由 #01 イヴ・サンローランの生い立ち

2015年12月31日 01:42 by monthly_tecci
2015年12月31日 01:42 by monthly_tecci

イヴ・サンローランの直筆サイン
 

 


バックステージのイヴ・サンローラン(1972年)

ここ最近小室さんが着用される機会が多いサンローラン。誰でも一度はその名を耳にしたことのある世界的に有名なファッションブランドのひとつです。このブランドを創設したファッションデザイナー、イヴ・サンローランは、もはや世界の偉人と言っても過言ではありません。モード界に革命をもたらした彼の生涯は大変ドラマティックで栄光と転落と再起の人生でした(あれ…誰かさんと似ているような…?)。
現在そのサンローランの映画が公開されていることも合わせて、イヴ・サンローランの生涯、近年公開された3本の映画、小室さんとサンローランについて、今月と来月にわたり特集します。

 


1960年ディオールの家でデッサンを描くイヴ・サンローラン

【ムッシュ・ディオールの後継者】


1972年にフランスのアルザスからアルジェリアの港町オランに移住し、名家の地位を築いていたマチュー・サンローラン家の息子で有能な実業家であったシャルルと、知性と教養を持ち合わせた美しい女性リュシエンヌとの間に、1936年長男として生まれたのが、後に「モードの帝王」として君臨することになるイヴ・サンローランです。

幼い頃から美しいものに特別な関心を示し、流行に敏感な母親が艶やかなドレスやアクセサリーを身にまとい着飾る姿を間近で見るのがこの上なく好きだったサンローランは、いつしか母親の装いに対して自らの意見で着替えさせたり、アクセサリーを選んだりするようになったと言います。
また、当時オランでは移住したフランス人のためにコンサートやオペラ,劇などが本国のアーティストによって盛んに催されており、サンローランも母親に連れられ頻繁に訪れていましたが、鑑賞後に家で小さな紙の舞台を作り、布の衣装をまとわせた紙の人形を置いたり、自身で想像したヒロインの衣装をデザインしてデッサンを重ねるなど、その芸術的な舞台装飾や衣装に魅せられることにより、サンローランの繊細な感受性はさらに豊かなものとなり、審美眼が磨かれていったようです。

1953年、若手ファッションデザイナーの登竜門である国際羊毛事務局(IWS)主催のコンクールに応募したデッサンが3等に選ばれ、17歳のサンローランは母親に連れられパリへ向かいます。その時母親は息子の才能と将来性を信じ、知人を介し、クリスチャン・ディオールと特に親しかった『パリ・ヴォーグ』の編集長ミッシェル・ド・ブリュノフと息子を面会させる機会をつくっていました。
サンローランのデッサンを見たブリュノフは、非凡な才能をつぶさに感じ取りましたが、まだ高校在学中のサンローランに対し、今は学業に専念し、なおファッションの仕事を志すのであれば高校卒業後にパリ・オートクチュール組合が経営する専門学校に入ればよいとのアドバイスをします。その後も2人の交流は続き、学業の傍らデッサンに励むサンローランは、その溜まったデッサンをブリュノフに送り続けました。

1954年、高校を卒業したサンローランはブリュノフのアドバイスに従い、モード専門学校に入学。デッサンのほかに裁断、裁縫などを学びながら、同年の国際羊毛事務局のコンクールに再び応募したサンローランは、カクテルドレス部門で最優秀賞を受賞しました。ちなみに、コート部門の最優秀賞はドイツ・ハンブルク出身のカール・ラガーフェルドでした。

そして人生の転機はあっという間に訪れます。
いつも通りブリュノフがサンローランのデッサンに目を通していると、あるデッサンに釘づけになります。それは、友人のクリスチャン・ディオールが新しいコレクションとして仕上げたばかりのAラインのドレスにそっくりだったのです。ブリュノフはそのコレクションを内覧していましたが、まだ外部には一切公表されておらず、その内容をサンローランが知る由もないのは明らか。それなのに、まだ専門学校も卒業していないような青年がディオールと同じ作品を同じ時期にデザインしている。
驚いたブリュノフはすぐにディオールに電話をしてその事実を告げ、休暇に出る直前であったディオールを引き留め、サンローランと面会する時間をつくらせました。そしてディオールは、デザインを確認したその日のうちにサンローランをクリスチャン・ディオールに採用したのです。

アトリエで働き始めたサンローランは、彼の天性の才能に期待を寄せるディオールの信頼を得て、また同じくアトリエで働くスタッフにも恵まれ、幸せな日々を過ごしていました。その恵まれた環境の中で、アトリエのデコレーションからスタートしたサンローランは当然の如く頭角を現し、コレクションのデザインに採用されるまでに成長を遂げ、ディオールはサンローランを自身の後継者とみなすようになります。

そんな矢先、1957年10月、ディオールが保養先のイタリアで心臓発作を起こし急逝。
そして弱冠21歳のイヴ・サンローランがクリスチャン・ディオールのチーフデザイナーとして、デザインのすべてを任されることが記者会見で発表されたのです。

1958年、サンローランはクリスチャン・ディオールにおける最初のコレクション「トラペーズ(台形)・ライン」を発表。各方面から絶賛され、新進気鋭のデザイナー、イヴ・サンローランの実力が世界中に認められたその成功こそが、今後も長く続いてゆくクリスチャン・ディオールでのサンローランの活躍を約束していたかに思えました。

 


1958年(小室さんご生誕の年!)ディオールのオフィスで電報を読む22歳のサンローラン。

1960年のコレクション


【独立…モードの帝王への道】

しかし運命は大きく傾いていきます。
1960年、サンローランはフランスからの独立運動が激化していたアルジェリア戦争にフランス軍兵士として徴兵されたのです。大切な生まれ故郷であるアルジェリアに武器を向けるなどもってのほか。繊細でデリケートな神経の持ち主であるサンローランが軍での生活に適応できるはずもなく、間もなく心身に変調をきたし、パリ郊外の精神病院に入院させられてしまいます。

その間、クリスチャン・ディオールは入院中のサンローランの後任にマルク・ホアンをチーフデザイナーに起用することを決定。サンローランは事実上解雇されます。古典的で保守性を重んじる当時のディオール社は、最初のコレクション以降、ファッション業界の暗黙のルールを破るような挑戦的なデザインを展開するようになったサンローランに不快感を示すようになっていたのです。

恋人のピエール・べルジェによって精神病院から救い出されたサンローランはその決定を知り絶望しますが、クリスチャン・ディオールへの復職を望むのではなく、独立したオートクチュール・メゾンを立ち上げてそこで自身のデザインを創作することを決意したのです。

サンローランはベルジェとともに契約不履行でクリスチャン・ディオールを提訴。勝訴して賠償金を得ますが、新しいメゾン設立とコレクション発表には十分な額ではなく、ベルジェは資金調達に奔走します。
そして、信頼する友人やクリスチャン・ディオールを辞めサンローランを追ってきたスタッフらの協力により、1962年最初のコレクションを発表しました。
クリスチャン・ディオールの跡継ぎながら不遇にも解任されたイヴ・サンローラン、世間の大きな注目を否応無しに集めたコレクションは結果的に成功を収めます。それは常にクリスチャン・ディオールの名と共にあったイヴ・サンローランではなく、独立した個のデザイナーとしてのイヴ・サンローランの名が世界中に轟いた成功でもありました。



※本サイトに掲載した写真、イラスト、記事の無断転載を禁じます。
CopyrightⒸ2015 MONTHLY MAGAZINE TECCI All Right Reserved.

関連記事

特集#01 TK Wardrobe in the Hospital 1/2

2016年6月2日号 vol.13

特集#01 TK Wardrobe in the Hospital 2/2

2016年6月2日号 vol.13

特集#02 INNOVATION WORLD FESTA 2016 at 筑波大学 Live Report

2016年6月2日号 vol.13

読者コメント

コメントはまだありません。記者に感想や質問を送ってみましょう。

バックナンバー(もっと見る)